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展示室休室前、最後のTARO賞
岡本太郎美術館と、四半世紀前の塗装仕事
川崎市多摩区にある生田緑地。その豊かな自然の中に、ひときわ不思議な姿でそびえ立っているのが、岡本太郎作のシンボルタワー「母の塔」です。
その足元に広がる川崎市岡本太郎美術館は、私の自宅からも程近く、このブログでもこれまでに何度か紹介してきました。企画展を観るために訪れることもあれば、生田緑地を散歩したついでに立ち寄ることもある、私にとって身近な美術館です。

川崎市岡本太郎美術館は「自然と融合した美術館」をコンセプトとしており、展示室をはじめとする施設の大部分が地下にあります。地上には「母の塔」や池、滝、カフェなどが配置され、生田緑地の自然と一体になるよう設計されています。所在地は川崎市多摩区枡形7丁目、生田緑地の園内です。
岡本太郎が川崎市に託した作品たち
岡本太郎といえば、大阪・万博記念公園の「太陽の塔」や、「芸術は爆発だ!」という言葉を思い浮かべる方が多いでしょう。
しかし、岡本太郎が川崎市で生まれた芸術家であることは、意外と知られていないかもしれません。

岡本太郎は1911年、現在の川崎市高津区二子に生まれました。父は漫画家の岡本一平、母は歌人・小説家の岡本かの子。幼いころから、芸術や文学がごく身近にある家庭で育ちました。
川崎市と岡本太郎の結びつきが大きく動き始めたのは、1991年のことです。川崎市市民ミュージアムで「川崎生まれの鬼才・岡本太郎」展が開催され、その年の11月、岡本太郎から川崎市へ主要作品352点が寄贈されました。
さらに1993年には1427点が追加で寄贈され、美術館の建設予定地として生田緑地が選ばれます。
岡本太郎が亡くなった1996年に建設工事が始まり、1999年2月に建物と展示工事が竣工。同年10月、川崎市岡本太郎美術館が開館しました。

生前に寄贈された作品は約2000点に及びます。美術館はそれらの作品を収蔵・展示するだけでなく、岡本太郎の思想や人間像を伝え、次の時代をつくる芸術家を応援する場所として歩み続けてきました。
開館前、美術館の什器塗装に携わって
実は私も、この美術館とは少しばかりご縁があります。
美術館が竣工した当時、館内で作品を展示するための什器の一部を、塗装職人としてお手伝いさせていただきました。

当時は目の前の仕事を仕上げることに精一杯で、その什器がこの先どれほど長く使われ、多くの人の目に触れることになるのかまでは、深く考えていなかったように思います。
けれども、こうして眺めると、開館からすでに四半世紀を超える年月が流れたことに、あらためて驚かされます。

美術館の什器は、それ自体が主役になるものではありません。作品を安全に支え、空間になじみ、鑑賞する人の視線を作品へと導く、いわば裏方の存在です。
塗装もまた、目立ち過ぎてはいけません。什器の表情を整えながら、作品や空間をを引き立てることが求められます。
家具や什器の塗装に携わってきた者として、自分たちの仕事がこの美術館の空間の一部になっていることを、今になって少し誇らしく感じています。
パリで前衛芸術と出会った岡本太郎
知名度の高い岡本太郎ですが、芸術家としてどのような道を歩んだのかは、あまり知られていないように思います。
岡本太郎は18歳で東京美術学校、現在の東京藝術大学に入学しますが、その年の暮れ、両親とともにヨーロッパへ渡りました。その後は一人でパリに残り、ソルボンヌ大学で美学を学びます。
20代の岡本は、ピカソの作品に強い衝撃を受け、抽象芸術やシュルレアリスムの作家たちと交流しました。さらに、文化人類学者マルセル・モースのもとで民族学も学んでいます。絵画だけでなく、人間の営みや祭り、原始的な造形にまで関心を広げていったことが、後の作品や思想につながっていきました。
第二次世界大戦の影響で1940年に帰国し、その後は兵士として中国戦線へ送られます。終戦後に復員すると、東京の自宅に残していた作品がすべて戦火で失われていたことを知りました。
それでも岡本は再び制作を始め、戦後日本の前衛芸術運動に深く関わっていきます。
やがて絵画や彫刻だけでなく、建築、家具、食器、グラフィック、公共空間のモニュメントなど、生活や社会の中へと芸術を広げていきました。
1970年の日本万国博覧会ではテーマ館を担当し、「太陽の塔」を制作。1981年にはテレビコマーシャルで発した「芸術は爆発だ!」という言葉が広く知られるようになりました。
奇抜な発言をするテレビの人気者という印象もありますが、その背景には、パリで学んだ前衛芸術や民族学、戦争体験、そして人間の根源へ迫ろうとした長年の思索がありました。
岡本太郎は単に作品を作るだけでなく、「どう生きるか」を全身で表現し続けた芸術家だったのだと思います。
毎年楽しみにしている「TARO賞展」
私がここ数年、毎年のように足を運んでいるのが、川崎市岡本太郎美術館で開催される公募展「岡本太郎現代芸術賞展」、通称「TARO賞展」です。
TARO賞は、岡本太郎が亡くなった1996年の直後に「岡本太郎記念現代芸術賞」として創設され、2006年に現在の「岡本太郎現代芸術賞」へ名称が変更されました。
岡本太郎の精神を受け継ぎ、自由な視点と発想によって現代社会に鋭いメッセージを投げかける作家を顕彰する賞です。
その根底にあるのが、岡本太郎が1954年に出版した著書「今日の芸術」の副題でもあった、「時代を創造するする者は誰か」という問いです。
一般的な公募展のように、決まった大きさの絵画や彫刻が整然と並ぶ展覧会ではありません。

平面作品、立体、写真、映像、音、巨大なインスタレーションなど、表現方法は実にさまざまです。
「これはいったい何なのだろう」と、思わず足を止めてしまう作品も少なくありません。
分かりやすい美しさや技術だけでは評価できないところが、TARO賞展の面白さです。
第29回展に集まった、21組の表現
第29回岡本太郎現代芸術賞展は、2026年1月31日から3月29日まで開催されました。

今回は644点の応募があり、その中から21組が入選。岡本太郎賞と岡本敏子賞が各1点、特別賞が6点選ばれました。会場には平面、立体、映像、インスタレーションなど21点の作品が並びました。
岡本太郎賞を受賞したのは、高田哲男さんの「FUKUSHIMA5000」です。
東日本大震災から15年となる2026年までの5440日と同じ枚数の絵を、インクボールペンで描いた作品です。福島第一原子力発電所に近い地域の出来事や、事故、廃炉、復興に関する記録が積み重ねられ、土のう袋やフレコンバッグ(ポリプロピレンなどの素材で作られた大容量の袋)とともに、約5メートル四方の巨大な空間を作り出していました。

一日一日の小さな記録が膨大に積み上がることで、15年という時間の重さが目に見える形となって迫ってきます。
岡本敏子賞を受賞したのは、馬場敬一さんの「死と再生のイニシエーション」。

段ボールに描いた自画像や髑髏、女神などを、一度壊し、再び組み立て、樹脂で固めるという工程で制作された大作です。描く、破壊する、再構築するという過程を通して、誕生、死、再生、永遠が表現されています。
このほかにも、被爆から80年を迎えた広島を題材とした写真作品、ガラスケースの中で回転する戦車のような物体、自らの内面を大量の段ボールで構築した空間など、社会の記憶から個人の心の奥底まで、さまざまなテーマを扱った作品が並んでいました。
今年も、作品の意味をすぐには理解できなくても、その物量や素材、空間の使い方に圧倒され、作家が注ぎ込んだエネルギーを全身で受け取るような展覧会でした。
約3年間の改修工事へ
第29回TARO賞展が終了した翌日の2026年3月30日から、川崎市岡本太郎美術館は改修工事に入りました。

公式には、美術館全体が約3年間完全に閉鎖されるのではなく、常設展示室と企画展示室での展覧会が、2029年3月末まで休止される予定です。工事開始直後の3月30日から4月17日までは、騒音を伴う工事のため全館が臨時休館となりました。

現在は、工事の影響を受けない館内の無料スペースを活用して、小規模な作品展示「ちょこっとTARO」が行われています。2026年7月18日からは、岡本太郎の愛嬌のある立体作品を集めた「太郎のかわいい」が始まり、約40点が無料で紹介されています。

ただ、いつもの常設展示室や企画展示室で、岡本太郎の作品やTARO賞の大規模な展示を観られるようになるまでには、もうしばらく時間がかかります。
美術館が再び動き始める日を待ちながら
開館前に塗装をお手伝いした什器の写真を眺めながら、あれから本当に長い年月が過ぎたのだと、しみじみ感じます。

私が塗装したのは、美術館を構成するほんの小さな一部分です。
それでも、その仕事が作品を支え、長い間、多くの来館者を迎える空間の一部となっていたことは、塗装職人として忘れられない経験です。
約3年間の改修を経て、美術館がどのような姿で再び私たちを迎えてくれるのか。今から楽しみにしています。
そして再開した美術館で、新しい世代の作家によるTARO賞作品を前に、また岡本太郎のあの問いと向き合うことになるのでしょう。
「時代を創造する者は誰か」
岡本太郎が投げかけたその問いは、美術館が工事に入った今も、少しも古びることなく、私たち一人ひとりに向けられています。
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それでは今回はこの辺で。
最後までお読み頂きありがとうございました。
次回もお楽しみに!!
●ニシザキ工芸株式会社塗装部HP
https://tosou.nishizaki.co.jp/
●特注家具・ニシザキ工芸株式会社HP
https://www.nishizaki.co.jp/
展示室休室前、最後のTARO賞
岡本太郎美術館と、四半世紀前の塗装仕事

川崎市多摩区にある生田緑地。その豊かな自然の中に、ひときわ不思議な姿でそびえ立っているのが、岡本太郎作のシンボルタワー「母の塔」です。
その足元に広がる川崎市岡本太郎美術館は、私の自宅からも程近く、このブログでもこれまでに何度か紹介してきました。企画展を観るために訪れることもあれば、生田緑地を散歩したついでに立ち寄ることもある、私にとって身近な美術館です。

川崎市岡本太郎美術館は「自然と融合した美術館」をコンセプトとしており、展示室をはじめとする施設の大部分が地下にあります。地上には「母の塔」や池、滝、カフェなどが配置され、生田緑地の自然と一体になるよう設計されています。所在地は川崎市多摩区枡形7丁目、生田緑地の園内です。
岡本太郎が川崎市に託した作品たち
岡本太郎といえば、大阪・万博記念公園の「太陽の塔」や、「芸術は爆発だ!」という言葉を思い浮かべる方が多いでしょう。
しかし、岡本太郎が川崎市で生まれた芸術家であることは、意外と知られていないかもしれません。

岡本太郎は1911年、現在の川崎市高津区二子に生まれました。父は漫画家の岡本一平、母は歌人・小説家の岡本かの子。幼いころから、芸術や文学がごく身近にある家庭で育ちました。
川崎市と岡本太郎の結びつきが大きく動き始めたのは、1991年のことです。川崎市市民ミュージアムで「川崎生まれの鬼才・岡本太郎」展が開催され、その年の11月、岡本太郎から川崎市へ主要作品352点が寄贈されました。
さらに1993年には1427点が追加で寄贈され、美術館の建設予定地として生田緑地が選ばれます。
岡本太郎が亡くなった1996年に建設工事が始まり、1999年2月に建物と展示工事が竣工。同年10月、川崎市岡本太郎美術館が開館しました。

生前に寄贈された作品は約2000点に及びます。美術館はそれらの作品を収蔵・展示するだけでなく、岡本太郎の思想や人間像を伝え、次の時代をつくる芸術家を応援する場所として歩み続けてきました。
開館前、美術館の什器塗装に携わって
実は私も、この美術館とは少しばかりご縁があります。
美術館が竣工した当時、館内で作品を展示するための什器の一部を、塗装職人としてお手伝いさせていただきました。

当時は目の前の仕事を仕上げることに精一杯で、その什器がこの先どれほど長く使われ、多くの人の目に触れることになるのかまでは、深く考えていなかったように思います。
けれども、こうして眺めると、開館からすでに四半世紀を超える年月が流れたことに、あらためて驚かされます。

美術館の什器は、それ自体が主役になるものではありません。作品を安全に支え、空間になじみ、鑑賞する人の視線を作品へと導く、いわば裏方の存在です。
塗装もまた、目立ち過ぎてはいけません。什器の表情を整えながら、作品や空間をを引き立てることが求められます。
家具や什器の塗装に携わってきた者として、自分たちの仕事がこの美術館の空間の一部になっていることを、今になって少し誇らしく感じています。
パリで前衛芸術と出会った岡本太郎
知名度の高い岡本太郎ですが、芸術家としてどのような道を歩んだのかは、あまり知られていないように思います。
岡本太郎は18歳で東京美術学校、現在の東京藝術大学に入学しますが、その年の暮れ、両親とともにヨーロッパへ渡りました。その後は一人でパリに残り、ソルボンヌ大学で美学を学びます。
20代の岡本は、ピカソの作品に強い衝撃を受け、抽象芸術やシュルレアリスムの作家たちと交流しました。さらに、文化人類学者マルセル・モースのもとで民族学も学んでいます。絵画だけでなく、人間の営みや祭り、原始的な造形にまで関心を広げていったことが、後の作品や思想につながっていきました。
第二次世界大戦の影響で1940年に帰国し、その後は兵士として中国戦線へ送られます。終戦後に復員すると、東京の自宅に残していた作品がすべて戦火で失われていたことを知りました。
それでも岡本は再び制作を始め、戦後日本の前衛芸術運動に深く関わっていきます。
やがて絵画や彫刻だけでなく、建築、家具、食器、グラフィック、公共空間のモニュメントなど、生活や社会の中へと芸術を広げていきました。
1970年の日本万国博覧会ではテーマ館を担当し、「太陽の塔」を制作。1981年にはテレビコマーシャルで発した「芸術は爆発だ!」という言葉が広く知られるようになりました。
奇抜な発言をするテレビの人気者という印象もありますが、その背景には、パリで学んだ前衛芸術や民族学、戦争体験、そして人間の根源へ迫ろうとした長年の思索がありました。
岡本太郎は単に作品を作るだけでなく、「どう生きるか」を全身で表現し続けた芸術家だったのだと思います。
毎年楽しみにしている「TARO賞展」
私がここ数年、毎年のように足を運んでいるのが、川崎市岡本太郎美術館で開催される公募展「岡本太郎現代芸術賞展」、通称「TARO賞展」です。

TARO賞は、岡本太郎が亡くなった1996年の直後に「岡本太郎記念現代芸術賞」として創設され、2006年に現在の「岡本太郎現代芸術賞」へ名称が変更されました。
岡本太郎の精神を受け継ぎ、自由な視点と発想によって現代社会に鋭いメッセージを投げかける作家を顕彰する賞です。
その根底にあるのが、岡本太郎が1954年に出版した著書「今日の芸術」の副題でもあった、「時代を創造するする者は誰か」という問いです。
一般的な公募展のように、決まった大きさの絵画や彫刻が整然と並ぶ展覧会ではありません。

平面作品、立体、写真、映像、音、巨大なインスタレーションなど、表現方法は実にさまざまです。
「これはいったい何なのだろう」と、思わず足を止めてしまう作品も少なくありません。
分かりやすい美しさや技術だけでは評価できないところが、TARO賞展の面白さです。
第29回展に集まった、21組の表現
第29回岡本太郎現代芸術賞展は、2026年1月31日から3月29日まで開催されました。

今回は644点の応募があり、その中から21組が入選。岡本太郎賞と岡本敏子賞が各1点、特別賞が6点選ばれました。会場には平面、立体、映像、インスタレーションなど21点の作品が並びました。
岡本太郎賞を受賞したのは、高田哲男さんの「FUKUSHIMA5000」です。

東日本大震災から15年となる2026年までの5440日と同じ枚数の絵を、インクボールペンで描いた作品です。福島第一原子力発電所に近い地域の出来事や、事故、廃炉、復興に関する記録が積み重ねられ、土のう袋やフレコンバッグ(ポリプロピレンなどの素材で作られた大容量の袋)とともに、約5メートル四方の巨大な空間を作り出していました。

一日一日の小さな記録が膨大に積み上がることで、15年という時間の重さが目に見える形となって迫ってきます。
岡本敏子賞を受賞したのは、馬場敬一さんの「死と再生のイニシエーション」。


段ボールに描いた自画像や髑髏、女神などを、一度壊し、再び組み立て、樹脂で固めるという工程で制作された大作です。描く、破壊する、再構築するという過程を通して、誕生、死、再生、永遠が表現されています。
このほかにも、被爆から80年を迎えた広島を題材とした写真作品、ガラスケースの中で回転する戦車のような物体、自らの内面を大量の段ボールで構築した空間など、社会の記憶から個人の心の奥底まで、さまざまなテーマを扱った作品が並んでいました。

今年も、作品の意味をすぐには理解できなくても、その物量や素材、空間の使い方に圧倒され、作家が注ぎ込んだエネルギーを全身で受け取るような展覧会でした。
約3年間の改修工事へ
第29回TARO賞展が終了した翌日の2026年3月30日から、川崎市岡本太郎美術館は改修工事に入りました。

公式には、美術館全体が約3年間完全に閉鎖されるのではなく、常設展示室と企画展示室での展覧会が、2029年3月末まで休止される予定です。工事開始直後の3月30日から4月17日までは、騒音を伴う工事のため全館が臨時休館となりました。

現在は、工事の影響を受けない館内の無料スペースを活用して、小規模な作品展示「ちょこっとTARO」が行われています。2026年7月18日からは、岡本太郎の愛嬌のある立体作品を集めた「太郎のかわいい」が始まり、約40点が無料で紹介されています。

ただ、いつもの常設展示室や企画展示室で、岡本太郎の作品やTARO賞の大規模な展示を観られるようになるまでには、もうしばらく時間がかかります。
美術館が再び動き始める日を待ちながら
開館前に塗装をお手伝いした什器の写真を眺めながら、あれから本当に長い年月が過ぎたのだと、しみじみ感じます。

私が塗装したのは、美術館を構成するほんの小さな一部分です。
それでも、その仕事が作品を支え、長い間、多くの来館者を迎える空間の一部となっていたことは、塗装職人として忘れられない経験です。
約3年間の改修を経て、美術館がどのような姿で再び私たちを迎えてくれるのか。今から楽しみにしています。
そして再開した美術館で、新しい世代の作家によるTARO賞作品を前に、また岡本太郎のあの問いと向き合うことになるのでしょう。
「時代を創造する者は誰か」
岡本太郎が投げかけたその問いは、美術館が工事に入った今も、少しも古びることなく、私たち一人ひとりに向けられています。
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それでは今回はこの辺で。
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